宅急便の産みの親 小倉昌男

小口重視の方針を強調し始めた頃の小倉昌男社長

小口重視の方針を強調し始めた頃の
小倉昌男社長(1970年代前半)

宅急便の産みの親である小倉昌男は、1924(大正13)年12月13日、小倉康臣の次男として誕生。
1948(昭和23)年大和運輸株式会社に入社した。
大和運輸は1960年に長距離輸送進出するもすでに同業他社より出遅れ、1973年のオイルショックにより、さらに荷物が激減。
その危機的な経営状況が続く1971年に、病床の康臣から社長を引き継いだ昌男の最初の仕事は現状からの脱却だった。
他社に差をつけられた市場にこだわるより、新しい業態をつくった方が良いのではないか・・・。
背水の陣で決断したのが宅急便の事業化だ。
昌男の経営の原点は徹底的にお客さまの立場に立つこと。
「サービスが先、利益は後」、そして社訓にもある「大和は我なり」の全員経営を社内に徹底させた。
これらの理念は、現在もヤマトグループに脈々と受け継がれている。

その後昌男は、1987年代表取締役会長、1991(平成3)年に代表取締役相談役となり、
1993年代表取締役会長へ再び就任、1995年に退任した。
会社の経営から退いた昌男が後の半生で力を注いだのは障がい者の自立と社会参加の支援だった。
自身の持つヤマト運輸の株式の大半を寄付し、1993年9月に「ヤマト福祉財団」を設立、理事長となる。
障がい者の低賃金からの脱却を図るため、施設の職員に向けた経営セミナーを開催し意識改革に取り組んだ。
2005年6月30日、腎不全のため逝去。享年80歳。