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第1部、100年のあゆみ。物流を切り拓いた、イノベーション

第1章、創業者物語

街は、まだ、ほとんど舗装されておらず、ニバシャが行き交う時代。そんななか、おぐら やすおみは、来たるべきスピードの時代を予見し、トラック運送業に乗り出す。交通運輸は文明文化の母で、トラック運送は、そのなかの代表になりつつある、との思いをいだき、現在にも受け継がれる社訓を定めて、従業員の心をたばねていった。創業者、おぐら やすおみが切り拓いた道とは。

フロックコートを着用し、創立総会に出席したおぐら やすおみ。1919年。

1. 人と競わず、とき と競う

育まれた商人の心がまえ

小倉ハチサブロウは、1889年、明治22年に東京、銀座、数寄屋ばし交差点近くの、江戸時代から続く、原料紙問屋の分家に生まれた。八人目の三男ということでハチサブロウと名付けられたが、1930年、昭和5年2月に康臣と改名。父、善兵衛は温厚な人柄で人望があり、母、もと は勝ち気であったという。その両親のもと、康臣は物心つかないうちから、商人の心を育んだ。

小学校では自分が納得するまで先生に質問し、商工中学へ進学すると、算数と英語を得意科目とした。薩摩琵琶を習うために かよっていた東京、芝の天徳じ では、忘れられない体験をしている。

あるとき、僧侶から、「人間とはなんぞや」との問いかけをされたことがあった。康臣は即座に、「あとさきを考える生き物なり」と答え、自分の口から出た言葉に驚いたが、僧侶は、「よいかな、よいかな」とその答えを褒め、人間の生命や、生き方についての法話を始めた。現在を説くなら過去をかえりみよ、将来を夢見てそれに向かえ。この話は康臣少年にとって、きわめて強烈であり、そのごも、頭から消えることがなかった。

しかし、長兄が継いだ家業が看板を下ろすことになり、康臣は学校を辞めざるを得なくなる。ただ、長シの嫁ぎ先の しんたんしょう や横浜の織物工場などで仕事をしながらヤガクにかよい、数学と英語の本は肌身離さなかった。

1914年、大正3年、ついに、康臣は自ら事業を起こす。譲り受けた大八ぐるまで野菜を売って歩く、引きやおやを始めたのだ。仕事が軌道に乗り、生活も安定してきたころ、康臣は知人の紹介で、五つ年下の はなと結婚。以降、はなは、1939年、昭和14年に、やまいで急逝するまで、康臣をナイジョの功で支え続けた。

スピードの時代を予見

引きやおやは繁盛し、1916年、大正5年には東京、麻布に店舗を構えるまでになった。屋号は万両屋。しかし、康臣にとってやおや商売は、あくまで将来、納得して邁進する仕事をするための、資金集めの手段にすぎなかった。若い人が商いに加わると定期的に会合を設け、「人間は前進するのが基本で、足踏みは退歩である」などと話し、自らの将来を切り拓いていく英気を養っていった。やがてカラダにしみついた、商人としての心がまえと才覚で、計画よりも早く、目標額であった資金1万円を達成すると、康臣の関心は、何を生涯の事業とすべきかに注がれた。労働を中心とし、近代的な仕事を興したいとは考えていたが、何をするかは決め切れておらず、1919年5月ごろからは、やおやの仕事は昼までに、終え、午後は情報収集に当たるようになった。ちょうど第1次世界大戦の影響で日本経済に好景気が到来して、新時代の交通機関である自動車が増加しつつあった。そこで、康臣は、親戚や知人を頼って、バスの運営会社や、自動車メーカーに足繁く かよい、修理や分解まで見学し、自動車についての知識を深めていった。

そのころ、そのごの運命を左右する出来事に遭遇する。1919年9月から、わが国で初めての交通整理がおこなわれ、ぎゅうばしゃは銀座大通りをとおれなくなったのだ。大八ぐるまだけでなく、ぎゅうばしゃに親しんでいた康臣にとって、これは大きな衝撃だった。自動車が堂々と行くさまを見て、もとより、ときに負けるな、を信条とし、人と競わず、ときと競う、という心がまえでいた康臣は、これからはスピードの時代だ、と直感し、あらためて自動車に強い関心をいだいた。銀座の大通りからはぎゅうばしゃが閉め出されたとはいえ、まだまだ道路を使っての貨物輸送の中心は、ぎゅうばしゃと荷車が担っていた時代のことだった。

トラックによる貨物輸送で起業

新事業を模索しつつ、自動車の研究にも余念がなかった康臣。そんな彼の思いをつたえきいた友人が、ある人が立案したトラック運送会社の設立目論見書を持ち込んできた。一読後、まさに自分の思いと合致し、これこそが生涯の事業だと確信した康臣は、この計画を買い取り、1919年11月29日、30歳の誕生日に、トラックによる貨物輸送をおこなう株式会社を創立した。前日には、営んでいた万両屋に、出世御礼の貼り紙をして、在庫ひんを売り切り、退路をたっている。社名は、ヤマト運輸株式会社。資本きんは10万円で、康臣自身が負担をしただけでなく、周囲に出資を募ったところ、大戦後の好景気が続いていたこともあり、順調に集めることができた。このころ、トラック運送業者のほとんどは個人事業であったが、康臣は株式会社としてスタートを切った。その理由は、生涯の事業は会社組織でおこないたいと考えていたこと、会社を拡大するには、多数の資本参加の方法が有効であること、株式会社とすれば、資本と労働の権利義務がはっきりすること、人の力を総合的に生かすには会社組織が望ましいと考えていたことが挙げられる。

そして何より、資本主義の生んだ株式会社という新しい形態に、パイオニアであろうとする康臣自身が、強くひかれていたからであった。

ヤマト運輸と名付ける

ヤマト運輸という名は、康臣がかつて働いていた、長シの嫁ぎ先である しんたんしょうの屋号、ヤマト屋にちなんだ。買い取った目論見書には、交際運輸、とあったが、それは康臣の意にそぐわず、新会社設立に向けての事務所を山登屋の2階に置いていたこと、ヤマトの国といえば、かつてこの日本を指していたことが気にいっての命名だった。また康臣は自身を社長ではなく、専務取締役とした。社長という響きは、上り詰めた最終段階との思いがあり、30歳の自分にはまだ早過ぎるとも、どこか恥ずかしいとも感じていたからだ。社長には、ジシの夫、谷村たんしろう に就いてもらった。ともあれ、小倉専務率いる ヤマト運輸は、その第一歩を踏み出した。創業の日は秋晴れ。創立総会は、銀座、朝日倶楽部の2階で、おごそかに開催された。出席者は10名ほどで、みなが和服に身をつつむ中、康臣だけが、当時流行の先端を行くフロックコートを身につけていたところにも先駆者精神が見て取れる。

初代本社は京橋区 ひがし とよたま かし 41号地、現在の銀座3丁目の木造瓦ぶき2階だての家屋を、かりいれた。従業員 (のちに社員と改称) は計15名。そのうち運転手とその助手が8名という陣容だ。トラックは、デンビー 2トンしゃと、フォード 1トンしゃの2台。営業は1919年の年末に始まり、さらに1トンしゃ2台が加わった。運賃はにばしゃが、いちにち、6、7円であるところを、3倍近くの17、18円に設定したため、周囲からは、ぜいたくな輸送と見なされたが、主に官公庁に納める石炭の運送に使われた。少ないながら、輸送の早さを求める顧客はすでにいたのだった。

はな夫人。

万両屋、一同。前列左側におぐら やすおみ。

写真の台紙裏には、大正八年一月元旦、万両屋、一同、新年会之を写す、と書かれている。

ヤマト運輸創業時の社長、谷村たんしろう。

創業時の本社社屋周辺のスケッチ。現在の銀座3丁目。左隣に朝日倶楽部がある。

創業当時、大正末期に使用された、T 型フォード、1トンしゃ。

年表の はんれい

A. おぐら やすおみと会社の出来事。

B. 同時代の出来事。

明治22年、1889年A. 小倉ハチサブロウ (1930年、康臣と改名) 誕生。11月29日
B. 大日本帝国憲法、ハップ
大正5年、1916年A. おぐら やすおみ、麻布市兵衛町に万両屋を開店
大正8年、1919年A. ヤマト運輸株式会社、創業
B. 自動車取締令公布
B. ヴェルサイユ条約締結
B. ILO 、国際労働機関、設立
大正10年、1921年A. 鮮魚配送開始
大正11年、1922年A. 横浜市内に取扱店を指定し、定期的な こにもつ運送を開始
A. タカオサン乗合営業権、ならびに自動車 (バス) を譲渡
大正12年、1923年A. 三越呉服店と、商品配達の正式な約定ショ、締結
B. 関東大震災発生
大正13年、1924年A. 本社社屋新築移転。二代目
A. 車庫兼修理工場設置。浜松町
A. この年、秋から、運転手に制服制帽を採用して貸与
A. 引越荷、婚礼荷業務、開始
B. 東京市営バス開業
大正14年、1925年A. クナイ省の運送に従事し、そのごも用命を拝受
B. 普通選挙法公布
大正15年、昭和元年、1926年A. 取次店制度を制定し、各地に取次店を設置
B. 大正天皇崩御
昭和2年、1927年A. おぐら やすおみ、万国自動車運輸会議に出席し、欧米各地を視察
B. 金融恐慌深刻化
B. 上野、浅草間に日本初の地下鉄開通
昭和3年、1928年A. 桜に Y の社章を商標登録。1922年ごろから使用
B. 普通選挙初めて実施
昭和4年、1929年A. 第二ヤマト運輸株式会社、設立。ヤマト運輸株式会社と合併し、ヤマト運輸株式会社に商号変更
A. 社キ、社カ、制定
A. 東京、横浜間の定期積み合わせ輸送、定期びん、開始。日本で初めての路線事業
A. 小田原営業所内に北条稲荷を復興建立
A. 本社社屋新築移転。三代目
B. 世界恐慌始まる
昭和5年、1930年A. 社内報、ヤマトニュース、発刊
昭和6年、1931年A. 社訓制定
B. 満州事変

2. 人を育成し、企業の成長に結びつける

創業直後の不況を乗り切る

トラック運送といえば、個人事業や、多くの事業を営む企業の副業であったころ、ヤマト運輸は、トラック専門で運送を手がける唯一の企業だった。先がけとして1907年、明治40年末に誕生していた帝国運輸は、すでに解散済みだったのだ。

僅かな時間、安い運賃、をキャッチフレーズとした、ヤマト運輸の滑り出しは順調だった。しかし、創業から4カ月後の1920年、大正9年3月、早くも苦境に立たされる。第1次世界大戦後の好況が一転し、株式市場が立ち会い停止になるほどの不況に陥ったのだ。ヤマト運輸もそのあおりを受け、1921年には仕事が減り、給与の支払いにも困るようになった。

そのため、糞尿の運搬を引き受け、康臣自身も、その助手を務めることもあった。こうして日々の収入を得ながら、日本橋にあった魚市場から各店舗へ魚を運ぶなど、新分野の開拓をおこなった。1922年には、横浜市内に取扱店を設け、東京の本社への定期輸送を始めている。それまでのようなトラック1台の貸切ではなく、小口雑貨を1台に集約して運ぶ、小口積み合わせという斬新な形態であった。

この年には、三越呉服店から依頼を受け、荷車を使うのとさほど変わらない金額で、横浜までの家具配送をおこなっている。その迅速な輸送により、1923年1月に、横浜方面への商品輸送を、同年4月には東京市内の配送を依頼されるまでになった。それまで自家用シャで配送の大半を賄っていた三越は、ヤマト運輸の低運賃、運転手の勤務態度の良さ、そして会社組織で信頼性が高いことを評価しての決断だった。そのおかげもあり、7月に四谷にシュッチョウジョを設け、計12台のトラックを所有、創業から4年で、ある程度の陣容を整えることができた。

震災をくぐり抜け信用を積み上げる

関東大震災が発生したのは、ヤマト運輸が三越との契約で経営の柱を確立した年、1923年9月1日の昼前のことだった。

このとき、市ヶ谷の産院に入院中の夫人を見舞っていた康臣は、余震の発生を念頭にトラックの保全に動く。まず午後4時までに、三越本店の中庭に置いていた新車8台を東豊玉かしの本社へ移動させた。さらに、銀座で火災が発生したのを知ると延焼を恐れ、車を代々木へ移すことを決断する。トラックには会社の書類や備品、近所の人たちを乗せた。しゃ列が本社をでたとき、火の手は銀座5丁目にまで迫っていた。12台のうち、修理中の1台だけは仮修理してなんとか動かしたものの銀座4丁目のカドで焼失してしまったが、他の11台は無事、避難が済んだ。夜半、本社は焼失。翌朝、焼け跡に立った康臣は、トラックを移動させなかったなら、すべてが失われていたに違いないと感じいった。

翌日から、明治神宮裏の代々木の原、に張られたテントが事業の拠点となった。4日からは東京市庁や内務省へ車を出す。運賃は相場のいちにち、15、16円と比べて、前払い、ガソリン、食事つきで50円という こう条件だ。復興を急ぐ、後藤新平 内務大臣による緊急措置だった。

ヤマト運輸は従業員一同が不眠不休でこの事態に臨み、京浜間の定期輸送を中断して、好条件で、省庁や、自治体の復興輸送を請け負った。そして、そこで得た収益をもとに、康臣は、発生する支払いには現金で対応し続けた。政府が震災を理由に支払いの一時猶予措置をとった中でのこの行為は、ますます、ヤマト運輸への信用を高めることになった。

震災後の康臣の自宅では、わずか4室しかないところに、多いときは20名ほどの罹災者を起居させ、毎日、何度もコメを炊くという騒ぎだった。そんな日々の中、配達不能となった神田の古本屋のつみ荷から、従業員が慰安で読むために本を持ち帰ったことがあった。それを知った康臣は激怒して、お客さまから荷物を預かり、無事に目的地に運ぶことの使命をとき聞かせた。それから2カ月後、荷主がようやく見つかり、元のまま、本を送り届けることができ、大変感謝された。のちに制定される社訓に通じる、康臣の信念が伺えるエピソードである。

震災からの復興に、おおいに貢献したヤマト運輸は、1924年1月、京橋区こびきちょう1丁目7番地、現在の銀座1丁目に、事務所兼車庫を建設した。二代目の本社。借地ながら、初めての建物所有だ。この年の12月には、康臣の次男、昌男が誕生している。続けざまに車庫、修理工場、社宅、営業所を新設し、1927年、昭和2年初頭には車両台数が23台となり、創業7年にして経営基盤が整った。

東京に大きな打撃を与えた震災は、輸送の主役をトラックへと変えていた。ぜいたくな存在であった自動車が、焼け跡の片付けや、救援物資の運搬など、迅速な運送に有効な存在であることが誰の目にも明らかになっていたからだ。需要を見込んだ小規模なトラック運送業者は急増し、その一方で、震災から半年ほどで復興需要が落ち着いてくると、再び不況が訪れたこともあって、運賃の値引き競争が激化した。しかし、康臣は、運賃競争では勝っても負けても、とくにならないと判断し、その勝負を避け、小規模業者には手が出せない事業を模索する。

それが、引越荷と、婚礼荷を専門とした運送だった。他社を寄せ付けない美しい車両、制服を身につけ、言葉遣いもていねいな運転手、やわら と呼ばれる、家具を傷つけないための布団状のクッションを揃え、婚礼荷用には華やかな鶴亀の きんまき絵を施した特製ボディをつくり、からくさ柄のカバーも用意し、祝賀ムードに花を添えた。婚家の要望には、きめ細かく応じ、車を連ねて、少ない婚礼荷を多く見せることも、逆にひっそりと目立たせずに運ぶこともあった。

こうした心配りは評判を呼び、注文が殺到。1925年、大正14年に、くない省御用達運送を拝してからは、宮家や上流家庭の婚礼荷の運送をほぼ独占することになった。

従業員の心をたばねる

震災を乗り越えた康臣は、すでにいちにんまえの経営者となっていたが、その心のうちには、わらじを履き、野菜を積んだてぐるまを引いていたころの思いが残っていた。効率よく荷を積めるか、約束どおりに送り届けられるかは、現場の人間次第である。汗を流し、からだを張って働く人たちなくして、トラック運送業のような事業は成り立たない。のちに新聞に連載した自叙伝、わが風雲録、野芝に生きる、の中で、康臣は次のように書いている。「トラック輸送事業は、このような人たちに支えられていることを、わたしはつねに念頭においてきた。これは、わたしの、わらじ精神のあらわれのひとつである」。

その思いを胸に、康臣は経営体制の充実をはかる。マネジメントを重視して、管理職には、当時はまだ少なかった大学卒業生を積極的に採用し、営業拡大のため、営業所を増やすほか、運転手こそが会社の信用と品位を代表する顔であるとして、1924年、当時としては斬新な起毛じの青襟がついたカーキ色の制服と、黒いラシャじの大黒帽 (のちに革製に変更) を採用した。足もとはあみあげぐつだが、運転手のなかには、そこに革製のゲートルを合わせる洒落ものもいた。

康臣はさらに、組織の拡大に合わせて、従業員の声を聞き、経営を民主化しようと、毎月、定例会議を開催。1922年ごろから使われていた、桜に Y の商標を正式に社章とし、1928年、昭和3年に登録を完了したのも、この会議での論議がきっかけだった。

康臣は、トラック運送業の特色も十分に自覚していた。仕事の現場は営業所や取り引き先など、ひとところにとどまらない。だからこそ、別の場所にいても、思いを同じにできるよう、社内の意思疎通をはかる必要がある。1930年からは月刊の社内報、ヤマトニュースを発刊した。1934年には従業員手帳をつくり、全従業員に携帯させている。手帳の配布に先立つ1931年12月には社訓を制定した。同じ思いをいだく従業員に、それぞれの現場で自主的に働いてもらうためだ。ヤマトは我なり。運送行為は委託者の意思の延長と知るべし。思想を堅実に礼節をおもんずべし、の3箇条からなる社訓は、現在も受け継がれている。

この社訓を社内に通達した際の訓示には、交通運輸は文明文化の母であり、トラック運送はそのなかの代表になりつつあるとし、その重要な事業を目的に、ヤマト運輸は使命をまっとうすべく努力している、としるされている。これは康臣のいつわらざる思いだろう。そのためには運送を担う人が重要で、その教育に取り組まなくてはならない。そう考えた康臣は、1941年から指導目標を定め始めた。これはその年、1年間のモットーのことで、初年は、時間厳守。礼節を重視するという社訓の精神にのっとったものだった。

1935年ごろの三越専用シャ。後ろに写るのは1929年に新築された三代目本社。

関東大震災時に銀座4丁目で焼けた、ヤマト運輸のデンビーしゃ。中央部分。

婚礼荷の運送風景。

婚礼専用しゃが描かれた広告。

制服を着用した運転手。1927年新年会での集合写真。

戦前の事務員用バッジ。

1936年の従業員手帳の表紙と、なかに掲載された社訓。

年表のはんれい

A. おぐら やすおみと、会社の出来事。

B. 同時代の出来事。

昭和9年、1934年A. 従業員手帳発行
昭和10年、1935年A. 関東一円の定期びんネットワーク完成
B. 東京市中央卸売市場が開場
昭和11年、1936年A. 定期びんの名称を ヤマトビン と改める
昭和16年、1941年A. 太平洋戦争への突入で、業務の運営はますます困難に
昭和17年、1942年A. 深川区えだがわちょうに本格的なトラック ターミナル竣工
昭和19年、1944年A. 軍需省から輸送協力の要請
A. ヤマトビンを全面休止
昭和20年、1945年A. 光輸送隊を発足させ、中島飛行機武蔵製作所のいちゅう作業をおこなう
A. 終戦に伴い営業所復活開始
B. 太平洋戦争終結
B. インフレ激化
B. GHQ 、連合国軍総司令部、設置
昭和21年、1946年A. ヤマト運輸従業員組合、現在のヤマト運輸労働組合設立
A. 東京̶、小田原間のヤマトビン、再開
昭和22年、1947年A. 社長制を採用、おぐら やすおみが社長に就任
A. えちぜんぼり、さぎょうしょを開設し、米軍人軍属の家財梱包輸送、開始
B. 日本国憲法施行
昭和23年、1948年A. 当社株式を東京株式取り引きじょに初めて登録。店頭売買
昭和24年、1949年A. 当社株式を東京証券取り引きじょに上場
A. 通運事業の免許を取得し、翌年から事業開始。しおどめ、秋葉原、いいだまち
B. 運輸省設置法公布
B. 日本国有鉄道発足
昭和25年、1950年A. 東京税関貨物取扱にん免許を受け、通関業務、開始
昭和26年、1951年A. CAT 、シヴィル エア トランスポート航空と契約し、航空代理てん業務、開始
B. マッカーサー元帥、連合国軍最高司令官解任
昭和27年、1952年A. 京浜港において海上貨物の取り扱い開始
昭和30年、1955年A. 国際航空輸送協会、 IATA 貨物部門に加入

3. イノベーターとして、事業を牽引する

定期びんの路線網で、次代の基盤をつくり上げる

三越の路線の配送、引越荷や婚礼荷の運送など事業の拡大をはかってきた康臣だが、トラックの貸切を前提としたビジネスに終始していては限界があると考えていた。ただ、より広く、より多くの運送需要に応える新たなビジネスの手法が見つからない。東京、横浜間でおこなっていた小口雑貨の定期輸送は関東大震災で中断したままだ。

そんな折り、くしくもロンドンで開催される万国自動車運輸会議に日本のトラック業者代表として派遣されることになった。1927年、昭和2年のことだ。康臣はそこでカーターパターソン ( CP ) という企業を知った。ロンドンに本社を置く同社は、地方都市へトラックの定期びんを出していたが、その定期びんには独特の集荷と配送の仕組みが導入されていた。ロンドン発の定期びんに乗せる荷物は、市内をほろばしゃで定時巡回して集める。荷物のある家は、巡回に合わせて、CP の文字がはいった掛札を出しておくと、ほろばしゃを下りた係員が玄関先まで集荷に来て、運賃の精算もそこで済むので便利だった。集められた荷物はそのご、ほろばしゃから地方都市への定期びんにつみかえられた。

ドア ツー ドアのこの仕組みこそが、日本の小口輸送需要にこたえ、運送を変える。康臣はそう直感し、同様の定期びんの路線網を日本でつくり上げようと決めた。エリアはまず、関東一円。当時、三越が、買い物客への無料配送の範囲をその程度まで広げようとしていたことにヒントを得た。

まったく新しい運送を実現するため、やることはいくつもあった。独自の伝票作成、重さや容積を基準とした運賃の設定、そして営業だ。車体に大きく宣伝を掲げ、運転手はチラシを配布した。カーター パターソンは各家庭に CP のフダを配ったが、ヤマト運輸は、タバコ店や、雑貨店などを荷物の取次店とし、黄色じに赤で、桜に Y をそめ抜いた三角きを渡した。預かった荷物があるときには、それを目立つように掲げてもらう。トラックが乗り付けて作業を始めると、ものめずらしく感じた近所の人から、次々と荷物を託されることもあり、集荷の拠点となった店はかっきづいた。1929年に京浜線の開業をもって開始した定期びんは、日本初の路線事業となり、相変わらず不況の世にありながら、1935年末には関東一円にネットワークを広げた。

しかし、順風満帆ではなかった。荷物がわずかしかなかったこともあるし、役所ともぶつかった。1936年、ヤマト運輸の定期びん業務は違法である、との嫌疑をかけられている。その根拠となったのは、定期定路で旅客輸送をおこなうバスを対象として定められた輸送規程で、それを旗の掲げられた場所に立ち寄って集荷をおこなう定期びんのトラックに当てはめるのには無理がある。その旨を、ヤマト運輸は答弁書に記して提出し、結局は不起訴となったが、これを機に、定期びんの名をヤマトビンへと変更した。一方で、法律もこれを踏まえて1938年に改められ、定期トラックを定路に縛られない区間事業と見なすようになった。

解体の危機を乗り越え、事業多角化へ

1941年に始まった太平洋戦争は、ヤマト運輸の業務に大きな影響を及ぼした。戦時統制かで、ヤマトビンは休止に追い込まれ、1945年には、軍用飛行機を製造していた中島飛行機武蔵製作所の疎開に伴う物資の輸送を命じられた。そこで結成されたのが、光輸送隊なる特殊部隊で、疎開先の浅川、現在の八王子市の山中への重要輸送に携わった。

任務を完遂した後の8月、軍の将官から、ヤマト運輸を軍へくみいれると申し渡された。これは、ヤマト運輸解体を意味する。しかし、その命令は実行に移されないまま15日の終戦を迎えた。これで、「ヤマト運輸は生き残ったのだ」と感じた康臣は、1日も早いヤマトビンによる小口輸送の復活に奔走する。そして1946年9月に、小田原線で念願の再開にこぎ着け、その翌年、57歳で専務から社長に就任し、引き続き、事業を牽引していった。こうして1949年末には、ほぼ戦前と同様のヤマトビン もう を構築した。

事業復興と平行し、拠点の集約などの合理化、さらに事業の拡大をはかった。連合国軍総司令部、 GHQ の管理下、ガソリンの優先配給があり、収益率の高い進駐軍の家財道具の梱包輸送などを足がかりに、新規の区域、貸切業務も展開している。進駐軍のダグラス マッカーサー元帥が日本から引き揚げる際の引越作業も手がけた。ヤマト運輸は、この時期に、そのごの多角経営の第一歩を踏み出していたのだ。

おぐら やすおみの功績

1946年に復興したヤマトビンは関東のそとへも、1954年に たいら線 (福島)、1955年に仙台線と、エリアを広げていった。そして、1960年にはついに大阪線を開始する。

1950年代の路線拡大の最中には不況期を経験し、運賃競争も勃発していた。しかし、ヤマト運輸は毅然とした態度を貫き、正しい運賃でのサービス向上に努めたため、取扱量も増え、輸送規模も拡大していった。その質を担保したのは荷物を運ぶ従業員。現場で働く人を尊重していた康臣は、ますます従業員に向けて、正しい荷あつかいや、明るい対応の指導や、講習に工夫を凝らしていった。

このころにネットワークを広げた ヤマトビンが、たっきゅうびんの基礎となった。そう語る人物がいる。1950年にヤマト運輸に入社した都築幹彦 (のちのヤマト運輸社長) だ。このネットワークがなかったなら、たっきゅうびん事業の全国への急速な拡大はなかった、と当時を回顧している。戦前戦後にわたりたっきゅうびんの礎を築いた康臣は、1971年に社長を退き、その座をおぐら まさおに譲った。社長時代の1969年春、アメリカでの国際ロータリー大会に出席し、その帰国後に脳こうそくで倒れ、車椅子に頼る日々を送っていたのである。そして1979年1月15日、入院先の病院で89年の生涯を閉じる。それは、ヤマトビンという基礎の上で、昌男や、都築の奮闘によりたっきゅうびんが誕生してから3年後のことだった。

桜に Y の三角き。年代不明。

京浜線開始時のチラシ。1929年。

1937年ごろの若葉町営業所。横浜市。

マッカーサー元帥の居住地、現在のアメリカ大使館から、引き揚げ荷物を積んで出発する、ヤマト運輸のトラック。当時、担当した社員は元帥本人とも会い、「奥さんが優しい人だった」と回顧している。

1954年当時のヤマトビン営業所路線図。

1950年代のヤマトビン主力車両。

大阪線第一便のテープを切るおぐら やすおみ社長。1960年。

年表の はんれい

A. おぐら やすおみと会社の出来事。

B. 同時代の出来事。

昭和32年、1957年A. アライド ヴァン ラインズ社より、ネコ マークの使用承認を受け、親子猫のマークを制定し、使用開始
B. 神武景気下降し始める
昭和33年、1958年A. 美術梱包事業開始。インカ帝国文化展
A. 本社社屋新築移転。四代目
B. 東京タワー完成
昭和34年、1959年A. おぐら やすおみに、らん綬褒章授与
A. 創業40周年を記念し、あゆみ 刊行
B. 皇太子、現 上皇、ご成婚
昭和35年、1960年A. 東京、大阪間のヤマトビン路線運行開始
B. 日米安保条約調印
B. 道路交通法施行
B. カラーテレビ放送開始
昭和36年、1961年A. 国内航空線の混さい貨物取り扱い開始
昭和38年、1963年A. 大阪守口ターミナル、横浜綱しまターミナル竣工
B. ケネディ大統領暗殺
昭和40年、1965年おぐら やすおみに、くん四等旭日小綬章授与
昭和43年、1968年A. 海外駐在員を初めてニューヨークに派遣
B. 三億円事件
昭和44年、1969年A. おぐら やすおみが脳こうそくを発症し、おぐら まさおが社長代行に
B. アポロ11号による人類初の月面着陸
昭和46年、1971年A. ヤマト運輸五十年史、刊行
A. おぐら まさおが社長に就任し、康臣は取締役相談役に
B. ドル ショック
昭和50年、1975年A. ワーキンググループを結成し、たっきゅうびんの実施要領草案、作成開始
B. 第1回サミット、フランスで開催
昭和51年、1976年A. 関東地区において、たっきゅうびん、発売
B. 田中角栄、ぜん首相逮捕
昭和52年、1977年A. おぐら やすおみ 米寿を祝う会、開催
B. 日航機ハイジャック事件
昭和54年、1979年A. おぐら やすおみ、89歳で逝去

おぐら やすおみの高尾サン 参詣と、北条稲荷への祈念

ヤマト運輸では、年始に、八王子市、高尾サン薬王院、いづな、ゴンゲン堂 で、社業発展と交通安全を祈願している。また、2月初旬の初午には神奈川県にある、北条稲荷大明神で、代々、社長がサイシュとなって大祭をおこなっている。どちらも、始めたのはおぐら やすおみだ。

康臣は若いころ、高尾サン 参りを楽しみの一つとしていた。その縁もあって、1922年、大正11年4月に、高尾山と浅川駅、現在の高尾駅の間で乗合バス業を始めた。バスの人気は予想を超えるものだったが、不況で、本業であるトラック運送業がままならなくなると、同年11月に乗合バス業の権利を売却。そこで得た資金を、トラック運送業での支払いにあてたことで、周囲の信頼を失わずに済んだ。わずか半年ほどの乗合バス業は、ヤマト運輸存続に大きな役割を果たしたのである。

小田原にあった北条稲荷大明神とも縁が深い。1929年、昭和4年に、ヤマトビンの拠点を小田原に設けた際、営業所の裏に荒廃した祠があった。これは1495年、明応4年に、北条早雲が北条氏の守護シンとして京都から迎えたと言われており、それを知った康臣は、祠を再建し、自らサイシュとなって祀った。1983年、昭和58年には、その明神は、当時のヤマト運輸厚木主管支店の敷地内に遷移され、現在に至っている。

康臣は生前、毎年、会社を代表して、社員と、その家族の安泰を祈ると、やる気がみなぎるとし、神仏に祈るということは、最善の努力をすると誓うことだと綴っていた。

1969年1月、雪の中の高尾サン 参詣。

小田原営業所の裏に建つ再建当時の北条稲荷。

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