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第4部、語り継ぎたい物語、3、一番身近で愛される企業をめざして

第10章、寄り添う物語

世のため、人のため、という思いは、ヤマト グループの DNA として受け継がれている。日々の業務のときはもちろん、災害が発生したときや、地域の中で困りごとが起こったとき、その DNA は、一段と力を発揮する。障害者の自立を願い、応援するという企業姿勢も、この思いに沿ったものだ。みぞうの災害が発生したときにとった対応、行政とともにおこなう地域の課題解決、障害者との共生の取り組みとは。

路線バスで乗客とたっきゅうびんの荷物を一緒に運ぶ、客貨混載。宮崎県、2017年。

1、災害時の対応

非常時に求められること

1940年、昭和15年1月、静岡市で発生した大火災は、13時間以上、燃え続け、罹災者は2万8,000人以上にのぼった。おぐら やすおみは、静岡市役所の要請に応じ、トラック50台編成の復興救援隊を派遣した。ガソリン統制下、市から救援隊に支給されるガソリンは貴重だったが、康臣は、それを復興活動以外に使うことを許さなかった。その35年後の1975年、社長に就任していたおぐら まさおは、社内報のコラムにこう綴っている。「世の中にはいろいろな特殊なケースがあり、規則を作ったときには考えられなかったような場面がでてくることがある。中略。では、いったい何を基準にものを考えたらよいのだろうか。私はそれは良識だと思う。中略。とくに非常態勢のときには、それなりの考え方や行動があってこそ、人間らしい社会といえるのではなかろうか」。

社会的インフラを担う責任を自覚し、社員ひとりひとりの良識ある判断を重視していくこと。時代が移り変わっても、非常事態における判断と行動は一貫している。

被災地支援のあゆみ

災害が起きたとき、荷物をどのようにお届けするか。ヤマトは、これまでさまざまな災害に直面し、独自の取り組みをおこなってきた。

1982年、九州北西部を襲った、7月豪雨では、被災地宛のたっきゅうびん料金を、他社に先がけて半額に、1984年の、長野県西部地震では、対策本部宛の同料金を無料にした。1991年、平成3年の、雲仙普賢岳噴火にあたっては、必要な物資の輸送を無償でおこない、被災地の引越は半額で引き受けた。普賢岳のある島原は、土石流が日常生活を妨げた。少しの雨でも国道は通行止めになるため、 SD は、朝の天気の状態を見て、ヘルメットやマスクを持参して、荷物を届け続けた。

1993年7月に発生した、北海道 南西沖 地震では、奥尻営業所の社員の家族に犠牲者が出て、営業所は全壊し、車両は津波で流出した。ヤマト運輸は翌日に対策本部を設置し、輸送協力を北海道庁と日本赤十字社に申しいれ、避難所への救援物資の輸送活動に加わった。プレハブ施設で営業を再開した奥尻営業所では、奥尻町の個人発着の荷物を無料で配送した。

阪神 淡路大震災での現場完結型の判断

1995年1月17日の、阪神 淡路大震災では、社員1名と、家族13名が犠牲になっている。ヤマト運輸本社では地震発生直後から、対策本部を立ち上げて情報収集をおこなった。一方、被災地では、本社の指示を待つことなく、社員が自発的に行動を開始していた。行方不明者の捜索や、被災状況の確認を手分けしておこない、自分たちで窮地を乗り切ろうとしたのだ。炊き出し、ミルクやおむつ、生理用品の調達も自主的におこなった。甚大な被害を受けた神戸市長田区にある神戸兵庫営業所には、四国ヤマト運輸が運んだ、温泉の湯を張った仮設風呂も設置された。さらに、地震発生から約1カ月後には、住居を失った社員と家族が、会社が準備した仮設住宅に入居を始めている。公的な仮設住宅供給に先がけての取り組みだった。地域のボランティア活動は、全国の社員が応援にかけつけた。こうした支援を受け、被災者でもある、現地の社員は被災地を歩き、お客さまの避難先リストなどを作成し、営業再開にこぎつけることができた。

2004年の、新潟県チュウエツ地震でも、早急な安否確認と営業再開が実現した。また、地震発生直後から、長野主管支店は、十日町市が孤立する可能性を予測して、準備を進めていた。その結果、新潟県十日町市からの協力要請を受け、すぐに救援物資輸送をおこなっている。

東日本大震災の復興支援活動

2011年3月11日14時46分、東北地方 太平洋沖で地震が発生した。ヤマト運輸本社では、労使トップによる会議がおこなわれていたが、即座に中断し、4年前に策定した、ヤマト運輸本社 地震対策マニュアルに則って、木川眞 ヤマト運輸社長を本部長とする、地震対策本部を設置。ヤマト グループの東北での被災状況は、社員とその家族、クロネコ メイト合わせて死者5名、施設全壊、9カ所、しゃりょう全損58台。関東でも行方不明者が出て、部分損壊した施設もあった。被災地では、安全確保と、社員の安否確認を進める一方で、救援物資輸送が始まった。過去の震災に比べて顕著だったのがガソリン不足。燃料確保は困難を極めた。

そうした中、社員たちはできることを探し、実行に移していた。避難所に食糧がないと聞けば、農家などから米を入手して、おにぎりの炊き出しをおこなったり、役所にボランティア登録をして救援物資の仕分けをするなど、自治体や自衛隊と協力。物流のプロとして、積み上げてきたノウハウを惜しみなく注ぎ込んで、物資の分類、在庫管理、配送計画の決定、そして、配送も担った。荷物をお届けする先の家が津波で流されていたら、普段の会話から知り得ていた、高台にある親族の家に運ぶなど、緊急じならではの自発的な工夫もあった。岩手主管 支店長が受けた指示は、「とりあえずやってみろ」、「困った人がいたら助けろ」のふたつだけ。ミヤギ主管支店長は、それが使命であるかのごとく人助けする社員を誇らしく感じていた。「ヤマトは我なり」の実践がそこにはあった。

たっきゅうびんネットワークの復旧には10日間を要した。福島県いわき市では、「宅配の人が動き出すとほっとする」、同県白河市では「たっきゅうびん屋さんがないと、うちは生活できない」という声を聞いた。センターに、足の不自由な高齢者が台車を押してやってきたことがあった。集配は再開できず、センターでの受け渡しだけをおこなっていた時期だ。「もう我慢ができない」と SD が上司に詰め寄った。取りに来ていただくことが忍びないという。「配達に行かせてください」と彼は訴えた。お客さまの元に荷物を届けて、初めて、「ありがとう」という言葉がいただけることを改めて実感したのである。

本社も、こうした活動の支援のため、社員500人、車両200台体制の救援物資輸送協力隊を結成し、グループを挙げて、被災地での輸送協力活動をおこなうことにした。背景には、復興には息の長い支援が必要、という考えがあった。ボランティア活動の実施や、東日本大震災、生活、産業基盤復興再生募金として、たっきゅうびん1個につき10円の寄付を決めた。寄付金の使い道は、たっきゅうびんを育てていただいた恩返しとして、被災地の水産業、農業の再生と、その地域の生活を支える病院や、保育所などの社会的インフラの復興に限ることにした。寄付総額は募金分なども含めると、142億7,426万4,524円に達し、全額が、ヤマト福祉財団をとおして、岩手県の野田村保育所の高台への移転再建、宮城県南三陸町での仮設魚市場の建設、福島県小野町の小野町 地方綜合病院の移転再建など、31の事業に使われた。

熊本地震での救援物資輸送の取り組み

2016年4月、熊本地震の発生後には、救援物資が県庁に集中したことによる混乱を受け、ヤマト運輸は熊本県へ救援物資の輸送を提案した。東日本大震災の発生直後、社内救援物資は、本社からの、これ 送った リスト、被災地からの、これ 欲しい リスト を照合することで、刻々と変わるニーズに合わせて送られており、この経験が生かされた。

たっきゅうびんはお客さまのライフラインになっている。はからずも災害をとおして、このことを改めて認識させられた。短時間で営業を再開することは、いわば社会的責任なのだ。そのためにも、世のため、人のため、という思いは、今後も変わることなく受け継がれていく。

福祉現場の経営改革へ

そこに新しい活動が加わったのは、1995年の阪神、淡路大震災がきっかけだった。財団は被災した共同作業所を調査。昌男も実際に共同作業所を訪れる機会を得た。そこで昌男が見たのは、安い下請け仕事と、リサイクル業務に励む障害者の姿。儲かっていないことは明らかだった。収入を得るのではなく、デイケアの場として共同作業所を利用している障害者が多いこともわかった。支払われる月給が1万円以下というケースもざらだった。そこで、共同作業所が、障害者が自立するに足る給料を払えるようになるため、経営の視点を持ち込むことにした。1996年から、昌男は全国を行脚し、無料で、パワーアップ セミナーと題した経営塾を開催した。目的は、共同作業所の運営者を対象に、1万円からの脱却をはかれるよう、経営のノウハウを教えることだ。福祉関係者には、金儲けを嫌う人も少なくない。考えを変えてもらうため、「月給1万円で雇うということは、障害者を飯の種にしているということで、いいことどころか、悪いことだ」とまで踏み込むこともあった。ただし、昌男は自分は福祉のプロではないことを強く自覚していた。個々の障害者に何ができるのかは、福祉のプロに考えてもらい、自分はその経営のための方法を、無料で伝えることに徹した。

そうした中、1998年に、スワンベーカリーの1号店がオープンした。パンづくりも、接客も、障害者がおこなう店だ。タカキ ベーカリーの冷凍パン生地の存在を知り、障害者にもおいしいパンが焼けると気づいた昌男が、同社に協力を頼み、実現したもので、障害者が自立するための職場のモデルとなった。

ヤマト福祉財団のさらなる活動

ヤマト福祉財団は、2000年に、ヤマト福祉財団賞を創設した。共同作業所のような障害者施設や、民間企業で、障害者の就労機会を提供した個人に贈るもので、せい賞は、彫塑家のあめのみや あつしが制作したブロンズ像、副賞が100万円だ。単なる記念品ではなく、芸術作品にしてほしいと、像をせい賞にすることを昌男は強く希望したという。昌男の死後の2005年、賞はその名を、ヤマト福祉財団 おぐら まさお賞へと変えた。

2004年には、障害者のクロネコ メール便配達事業、現在の障害者のクロネコ DM 便配達事業が始まった。障害者に、クロネコ メイトとして、クロネコ メール便を配達してもらうのだ。2005年には、社会福祉法人ヤマト自立センターが設立され、そのごも通所型就労移行支援事業所スワン工舎新座、スワン工舎羽田がオープンした。昌男の始めたパワーアップ セミナーは、2010年に、パワーアップ フォーラムと改称し、多くの人にその目的を伝えるために規模を大きくした。2013年には障害者の給料増額に取り組むことを決めた施設が、自ら事業改革プランをつくり、実践するための資金を得られる、夢へのかけ橋プロジェクトをスタートさせた。そこでの成功事例は、パワーアップ フォーラムでも報告され、後進を刺激する存在にもなっている。単なる労働力ではなく、意識して戦力として障害者を雇用しよう。こうした昌男の思いは、一歩一歩着実に実を結んでいる。

長崎地区、7月豪雨時のたっきゅうびん料金割引告知ポスター、1982年。

北海道南西沖地震で被災したたっきゅうびん集配シャ。奥尻島、青苗地区、1993年。

阪神 淡路大震災で被災地を視察する、みやうち こうじ、ヤマト運輸社長、右端、1995年。

阪神 淡路大震災で、災害救援物資を運ぶたっきゅうびん集配シャ、1995年1月28日。

新潟県チュウエツ地震の地すべりに巻き込まれたたっきゅうびん集配シャ、2004年。

東日本大震災の被災地、岩手県陸前高田市を走るたっきゅうびん集配シャ、2011年。

同震災後の瓦礫の中、徐々に配達を再開、2011年。

同震災では、自衛隊と協力して救援物資を輸送。宮城県気仙沼市、2011年。

同震災での社員のボランティア活動、2011年。

ヤマトグループ全社員が、身につけたワッペンで思いを一つに、2011年。

東日本大震災、生活、産業基盤復興再生募金で建設された、宮城県南三陸町仮設魚市場。

熊本地震後の避難所への配達の様子、2016年。

スワン ベーカリー 1号店、銀座、のオープン セレモニー。左からありとみ けいじ、ヤマト運輸社長。おぐら まさお、ヤマト福祉財団理事長。たかき せいいち、タカキ ベーカリー社長、1998年。

スワン ベーカリーで働く障害者のスタッフ。

タカキ ベーカリー研修センターで、パンづくりを体験するおぐら まさお理事長、左、1997年。

ヤマト福祉財団おぐら まさお賞のせい賞、ブロンズ像、と副賞、賞金。

障害者のクロネコ DM 便配達事業、2015年。

2、共生への取り組み

地域とのかかわり

地域に寄り添うさまざまな取り組みは、本社主導ではなく、全国の支社や、各営業所が主体的に始めたものだ。

国鉄が民営化し、 JR となった翌年の1988年、昭和63年12月、九州で始まった試みもそのひとつ。 JR 九州と協業し、無人駅である、長崎本線の湯江駅、肥前浜駅と、佐世保線のきたかた駅で、たっきゅうびんを取り扱いながら、乗車券の販売や、改札業務、清掃なども実施。結果的に、無賃乗車や、駅周辺の治安の悪化を防ぐことにもなった。ヤマト運輸の提案によって実現したこの取り組みは、 JR 九州にとっては、民営化後、初めての他企業とのタイアップ事業となった。当時のヤマト運輸 九州支社長は社内報の中で、「これからも、ヤマトのネットワークを使った、新しいアプローチを試みていきたい」と語った。本事業は一定の役割を果たしたのちに終了したが、地域密着の取り組みはさらに各地に生まれていった。

地域の課題解決の取り組み

1992年、平成4年、全国初となる、宅配バスの実験運行が岩手県内で始まった。これは、たっきゅうびんの輸送の一部に、路線バスを利用するもの。この、客貨混載の試みは、北海道苫小牧市や、函館市でもおこなわれた。バス会社側は、利益の出ていなかった過疎路線の生産性向上を実現し、ヤマト側では、輸送時間の短縮による顧客サービスの向上を実現した。札幌市では2010年に、全国初の、地下鉄での客貨混載に挑戦した。

青森では、買い物代行に乗り出した。1998年、地元スーパーと連携し、遠方へ買い物に出かけるのが難しい地域で、欲しいものを、欲しいときに届けるサービスを始めたのだ。

岩手では2009年、お客さまの孤独死に直面した社員の強い願いが実を結び、独居高齢者などを対象とした、見守り支援サービスに乗り出した。厚生労働省のモデル事業に採択され、岩手県社会福祉協議会と連携しての実施である。翌年には、これが買い物代行と結びつき、まごころたっきゅうびん として、同県ニシワガマチ でサービスを提供した。

行政だけでは解決が難しい地域の課題に対して、ヤマト グループが自社の事業をとおして協力していく動きが生まれつつあった。これまで、行政、地方自治体は、一企業と組むことに抵抗があったが、東日本大震災でのヤマト グループの対応をきっかけに信頼を寄せ、協力関係が結ばれるようになったのである。

プロジェクト G の展開

地域に密着した取り組みが、プロジェクト G として本格化したのは、2012年だ。 G とは行政、 government 、の意味で、前年に発表した、 ダントツ3か年計画ホップでは、地方自治体と連携した地域活性化を、基本戦略のひとつに挙げていた。このプロジェクト G では、買い物代行や、見守り支援のような、安全、安心に暮らせる生活支援の実現、そして、地域経済の活性化をめざした。2012年、高知県大豊町で、買い物代行と、見守りを合わせたサービスを開始した。山間部にある大豊町では、町民の半分以上が65歳以上の高齢者。民生委員も高齢で、住民の健康状態の把握が難しいという問題があった。そこで、町と、商工会と、ヤマト運輸が連携し、11時までに商店に電話やファクスで注文があれば、それを18時までにヤマト運輸が届け、その際に、ヒアリング シートを活用して、お客さまの体調を聞き取ることにした。そこで変わったところが見られた場合には、役場や、消防署へ連絡をいれるという仕組みだ。

青森県黒石市では、市が独居高齢者のために、月に一度発行する刊行物をたっきゅうびんで届け、手渡しの際に、本人の健康状態を確認する取り組みがおこなわれた。不在の場合には、家の外から異変がないかをチェックし、異変があったり不在が続いたりした場合には、役場に連絡をいれるというもの。この試みは、青森県深浦町、兵庫県西脇市などでもおこなわれた。さらに地方だけでなく都市部でも、かかえている課題に取り組んでいる。東京都多摩市の多摩ニュータウンでは、新たに設置した拠点、ネコサポ ステーションを中心に、地域コミュニティの活性化や、都市型の生活支援が始まっている。

バスや鉄道の空きスペースでたっきゅうびんを運ぶ客貨混載も、2019年3月末時点で全国14ドウケンでの取り組みにまで広がった。また、東日本大震災での経験を生かし、救援物資の保管、仕分け、輸送などに関する災害協定も、各地の行政と続々と締結している。

一方、地域経済の活性化は、地域の名産品の販路拡大を支援する取り組みとしてスタート。その代表例が、エー プレミアムだ。これは、青森県と連携協定を結び、リンゴや、ホタテなど、農林水産ブツの鮮度を保ったまま、沖縄国際物流ハブを経由して、アジア各地へ最短で翌日にお届けするというもの。2014年に始まったこの試みは、2016年末時点で100社以上の企業が参加するまでに拡大した。また、訪日外国人観光客の、手ぶら観光の需要が増えたのを受け、手荷物預かりや、ホテルへの配送などの、観光支援サービスも各地で始まっている。

プロジェクト G のなか には、すでに一定の地域貢献を果たして終了したサービスもあるが、これまでの多くの取り組みは、お客さまの課題を解決しながら、企業としての経済的価値と、社会的価値を同時に実現するものだった。これは、社会の課題を解決しながら、自らの経済的な競争力を向上するシーエスブイ、共有価値創造、の取り組みだ。現在、日本はショウシ高齢化や、過疎化といった社会課題に直面しているが、ヤマト グループは今後も本業を通じた社会貢献として、地方自治体などと連携し、これらの社会課題の解決に貢献するプロジェクト G に注力していく。

おぐら まさおの福祉への思い

ヤマトグループ企業理念の、企業姿勢の項目には、「地域社会から信頼される事業活動をおこなうとともに、豊かな地域づくりに貢献します。特に、障害のあるかたを含む、社会的弱者の自立支援を積極的におこないます」というイチブンがある。ここには、おぐら まさおの強い意志が反映されている。昌男は積極的に、戦力として、障害のある人を雇用し、健常者と一緒に仕事に取り組んでもらうことで、その能力を発揮させ、伸ばそうと考えていた。この思いを受け止め、ヤマト グループは、健常者と障害者がともに仕事をしやすいように、働きやすい環境づくりに努め、障害者雇用を順調に軌道に乗せている。

障害者の自立を支援する、ヤマト福祉財団が設立されたのは、1993年9月のことだった。原資となったのは、会長職を退き、相談役となっていた昌男が保有する、ヤマト運輸の株式。昌男はそのほとんどを寄付したのだった。福祉財団設立の理由を、昌男は、「特別な動機があったわけではない。ただ、ハンディキャップのある人たちに、なんとか手を差し伸べたい、そんな個人的な気持ちからスタートした」としている。そこにはお世話になった社会への恩返しの思いもこめられていた。

財団の最初の取り組みは、助成だった。障害のある大学生に、返済不要の奨学金、月額5万円を助成。さらに、厚生労働省の許可を得ておらず、国からの補助も得られていない共同作業所に、作業環境改善のための資金を助成した。

長崎本線 湯江駅 営業所と所員、1988年。

佐世保線 きたかた駅での乗車券販売をおこなうのはヤマト運輸社員。1988年。

岩手県での、宅配バスの実験運行。荷物はバスの最後尾に積み込む。1992年。

岩手県ニシワガマチの、一人暮らしのお年寄りのもとに荷物をお届けする、まごころたっきゅうびん。2010年。

たっきゅうびんセンター社員による、まごころたっきゅうびん の手づくりの掲示ブツ。2009年。

高知県大豊町での、買い物代行。2013年。

青森県深浦町での独居高齢者定期訪問サービス。2015年。

東京都多摩市での、地域コミュニティー型のサービス ステーション、ネコサポステーション永山。2016年。

宮崎県西都市と、西米良村を結ぶ路線バスでの客貨混載。2017年。

エー プレミアムの取り組みで、市場でのニーズを聞き取る社員。2015年。

地域密着の取り組み、地元の祭りへの参加

地域に根ざした文化のひとつに祭りがある。徳島の阿波おどりはその代表格だが、四国ヤマト運輸は1991年、平成3年に、士気の鼓舞と知名度の定着のため、ヤマト連として72名が初参加した。

これに先立つ1982年、昭和57年、おぐら まさおは、青森県で開催された、全国運輸研究会で講演をおこなっていた。その日は、青森ねぶた祭初日でもあったため、講演後、昌男は他社のねぶたにハネト、踊り子、として参加。企業が、地域の人たちとともに祭りを楽しむ様を肌で感じ、翌年から、企業として参加することを決めた。

2011年、平成23年、岩手県宮古市の、みやこ秋祭りは、震災の影響で開催が危ぶまれていた。そこで、青森と岩手の社員が、ねぶたの参加を企画。それが、復興サイとしての みやこ秋まつりの開催につながり、復興支援ねぶたは2年連続で宮古を彩った。ほかにも祭りへの参加は秋田竿燈まつり、山形花笠まつりなど、各地に広がっている。

四国ヤマト運輸が初参加した阿波おどり、1991年。

大型ねぶたでの第1回出陣、1985年。

目の不自由なかたへのご不在連絡票

ヤマトのご不在連絡票には、両サイドにさんかくの切り込みがはいっている。これは目の不自由なかたにも、手にしただけで、ご不在連絡票であるとわかってもらうための工夫だ。

きっかけは、ひとりの社員の気づきだった。一人暮らしをする、目の不自由なかたが、ご不在連絡票であることがわからず困っているという話を友人から聞いたのである。その社員自身も視力が弱かったのだ。当初は、点字のご不在連絡票づくりも検討された。しかし、視覚障害者の中でも点字を読める人は限られるし、点字のご不在連絡票にするだけでは、本当の解決にはならないと考えた。そこで出たアイデアが、ご不在連絡票に切り込みをいれるというものだった。問題はどんな形の切り込みをいれるかだが、クロネコヤマトからのお知らせだから、ネコの耳という結論に達するまでに時間はかからなかった。ネコ耳つきのご不在連絡票は1997年、平成9年6月から使用されている。

ネコの耳が付いたご不在連絡票。1997年。

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