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第5部、声のたっきゅうびん。ヤマトへのメッセージ

第12章、ともに歩んだ方々からのメッセージ

ヤマト グループのこれまでのあゆみは、数多くのみなさまによって支えられてきた。業務を通して出会った方々、事業の発展に力添えをしてくださった方々、そして、ヤマトは我なり、の精神を胸に、ともに歩んでくれた社員ひとりひとり。本書の締めくくりとして、みなさまからの忘れられないメッセージの数々をご紹介する。

お寄せいただいたメッセージには、一部、省略箇所、表記修正箇所があります。ヤマト ニュースはヤマト運輸社内報、クロネコだよりは、たっきゅうびん取扱店向け冊子、 Yamato Global Times はヤマト グループ グローバル カンパニー報です。

長いおつきあいの岡山県の取扱店さまへの集荷。クロネコだより、2018年、春号掲載。

1、たっきゅうびんを通して出会った方々との思い出のメッセージ

たっきゅうびんの精神を大切にがんばります。和泉雅子

5月5日、朝10時30分。

小倉社長さん、いかがおすごしですか。私の、北極点も、いよいよ大詰めです。世界最悪の苦しい旅を、もう、43日間も続けております。でも、極点に着けば、苦しさもみな忘れて、喜びと、爽やかさが私の心に残ると思います。思えば、南極の本のことで、ご相談にうかがい、たったの15分間で引き受けてくださった社長さんの一言が、私の、北極点、行きの決心ときっかけでした。エア カーゴでは大変、お世話になりました。おかげさまでテント生活では、毎日、お米や、みそ汁を食べております。とにかく、苦しい旅もあと一息。なにがなんでも、ソリにしがみついても、この厳しい旅を完成させ、極点に立たなければと、残り300キロの道のりの地図をながめながら、決心もあらたにしております。たっきゅうびんは、やさしく確実に、ていねいに届くものです。私もたっきゅうびんの一員ですから、その精神を大切にがんばります。

北極海、ひょうじょうにて、マコ。

かつて、当社のシーエム モデルを務めていただいた、女優の和泉雅子さん。冒険家としても活動され、1985年、昭和60年に、史上初の、女性による、北極点、踏破にチャレンジした際、北極からおぐら まさお宛にお手紙を送ってくださった。北極点に立ったら、ネコマークの黄色い旗をふって写真を撮るという夢は、1989年、平成元年の再チャレンジで見事にかなった。ヤマト ニュース、1985年7月発行、第349号に掲載。

1985年のチャレンジの際に持参された旗。北緯88度40分の地点まで到達。

1989年の再チャレンジでの、北極点、到達を伝える、ヤマト ニュース、1989年6月発行、第384号の記事。北極点に到達したときの写真は、同年のたっきゅうびんの広告に採用させていただいた。

長野ヤマト会の高橋さんにあてた、おぐら まさおのメッセージ

長野ヤマト会、たっきゅうびんを利用して、リンゴの産直事業を営む長野県の農家の会の会長をされていた、高橋千明さん。高橋さんは、日本における産地直送の先駆者であると同時に、ヤマトの長野、しゅってん時にご尽力いただいた、恩人のひとりでもあります。また、たっきゅうびんの生みの親であるおぐら まさおさんが、高橋さんのご自宅を訪問された際、たっきゅうびん草創期に思いをはせながら、あなたのようなかたと、もう少し早くお会いしたかった、と堅く手を握った、というエピソードも残っています。退路を断ってでも、自分の理想に挑戦し続けた先駆者たち。その不屈のチャレンジ精神から、私たちが学ばなければならないものは、たくさんあると思います。

当時、ヤマト運輸社長を務めていた、きがわ まことによる、ヤマト ニュース、巻頭言、やまびこより。ヤマト ニュース、2011年2月発行、第656号に掲載。

2、取扱店さまからのメッセージ

たっきゅうびんを中心に、地域と人の和が広がっていきます

これ頼む。

みな子さんにだね。住所は変わってないね。

お客さんは荷物を置くと帰っていきます。送り状を書くのはサービスです。荷物が壊れ物でないか、生鮮品かを確認して送り出します。時には、「送り状を書いてください」と言うと、「オラ、書けないから書いてけれ」と、住所と名前の書かれたメモを出され、こちらで書き、もう、次からはメモも無し。田舎ならではのサービスでしょう。たっきゅうびんを中心に、地域と、人の輪が今日もほのぼのと広がっていきます。

秋田県の取扱店さまからいただいたメッセージ。クロネコだより、1990年9月発行、第94号に掲載。

みんなが必死だったので、私らも頑張れた

たっきゅうびんを始めたころは、この村では、だれもクロネコヤマトなんて知らなかったですからね。私らも、まずクロネコの名前を売るより、うちの店の信用で売っていこうと考えたわけです。手数料は考えずに、お客さまへのサービスとして宅配もしますよ、という気持ちで始めました。こんなに伸びてきたのも、私らだけでなく、もちろん、ヤマトの若い人が、一生懸命やってくれたおかげですよ。みんなが必死だったので、私らもがんばれたわけです。

新潟県の米穀てんさまからいただいたメッセージ。クロネコだより、1983年1月発行、第3号に掲載。

なぜそんなに早く届くのかって聞いたら

私は1976年、昭和51年の3月ごろに取扱店になったのですが、近所の学習塾の先生が、この書類を、同じ目黒区内に、明日までに届けたいんだが、というのが最初のお客さまでした。それなら、私じゃなくてヤマトのドライバーがたっきゅうびんで明日届けますよ、と。ほんとに翌日届いて、びっくりした。当時の平和島のたっきゅうびんセンターのセンター長さんに、なぜ、そんなに早く届くのかって聞いたら、「夜、走るから」だって。なぜ夜走るんだって聞いたら、だからクロネコ、なんだって (笑い)。

東京でのたっきゅうびんの取扱店第1号の一つ、燃料業さまからいただいたメッセージ。クロネコだより、1996年1月発行、第158号。新春座談会、20周年迎えた、たっきゅうびん、再び原点に帰って、に掲載。

1989年、平成元年、ヤマト運輸が、徳間書店、日本テレビ、放送網と共同提携で製作した映画、宮崎駿監督、魔女のたっきゅうびん が公開され、映画をご覧になった取扱店さまからも、多くの反響が寄せられた。

映画の公開時に作られたポスター。こころを暖かくするたっきゅうびんです、というキャッチコピーには、こころ暖まる映画を、ヤマトがお届けしていることと、たっきゅうびんが、送る人や、受け取る人のこころを暖かくするサービスであることの、ふたつの意味が込められている。コピーライト、1989年、かどの えいこ、Studio Ghibli、N 。

心の暖かさを運ぶたっきゅうびんに

中ニ、小五の娘と一緒に見に行きました。娘たちのボーイ フレンドも、トンボみたいな子がいいな、なんて思いながら。私は、キキがおばあさんの家でパイを焼く場面が好きでした。たっきゅうびんの荷物を運ぶだけじゃなくて、親切とか、心の暖かさを運ぶ感じがして。私も、ああいう心のふれあいを SD さんやお客さまと、していきたいですね。

佐賀県の取扱店さまからいただいたメッセージ。

重い荷物はヤマトにまかせて

とにかく、時間がたつのが早くって。キキやウルスラもいそうだし、なさそうでありそうな話っていうのがいい。魔女はいないと思うけど。それに、キキのはじめた、たっきゅうびんも大正解。ただし、重い荷物は大変だから、ヤマトにまかせてね。

北海道の取扱店さまからいただいたメッセージ。いずれも、クロネコだより、1989年10月発行、第83号に掲載。

せんべいを割らずに配達してくれるのは、ヤマトさんだけ

お預かりした荷物に関して、破損や、誤配などがしょっちゅう起こるようでは、こちらの信頼は台無しですが、その点、ヤマトさんは安心です。抜群の品質と対応力。15センチメートル四方もある せんべいを、割らずに配達してくれるのは、ヤマトさんだけ。万が一、何か問題があった時も、じつに早く、丁寧に対応してくれます。この安心感が、これまで長く、取扱店を続けてこられたひとつの要因ではないでしょうか。

東京都の和菓子販売店さまからいただいたメッセージ。クロネコだより、2008年、春号に掲載。

3、社員からのメッセージ

ヤマト ニュースは、戦線にいる将兵たちの心を慰めてくれた

1942年、昭和17年、応召、半年後にはアリューシャン列島の守備についていた。やがて、アリューシャン列島も、相継ぐ玉砕の運命をたどり、私も命がけで脱出。そして、千島列島最北端の島に上陸、再び守備についた。その間、内地より物資、郵便物等は輸送船の都合で、毎回、遅れがちであったが、ヤマト ニュースを必ず私の手元に届けてくれたのである。もっとも、そのころの、ヤマト ニュースは、ザラがみ一枚のガリ版刷りであったが、枠や見出しの部分は鮮烈な赤い色であった。戦友たちは、みんな、私のところへ集まってくる。みんな、ヤマト ニュースを知っているからだ。

「いいなあ。お前の会社はこういう物を送ってくれて」、「野戦にいながら、日本内地のことがわかるなあ」。ヤマト ニュースが、なぜ、もてたのか。軍本部の報道やラジオ、新聞と違ってウソがなかった。戦友たちは、たった一枚の ヤマト ニュースを奪い合って、むさぼるように読み、私の手に戻って来た時は、もうボロガミに近くなっていた。それでも戻ってくれば良いほうで、戻って来ない時が多かった。野戦の将兵は内地からの便りが欲しかった。というより、飢えていたのである。それだけ、ヤマト ニュースは、戦線にいる将兵たちの心を慰めた影の功績を秘めていると、内心、誇りに思っていたのである。何十回目かの終戦記念日が近づき、ふと、私の心の中をよぎったもの、それが、ヤマト ニュースへの思いだった。

ヤマト運輸元社員のメッセージ。ヤマト ニュース、1993年10月発行、第448号に掲載。

こういった行動を自らおこなうというところに、ヤマトの理念が体現されている

タイでたっきゅうびん事業を展開している エスシージー、 Yamato Express の SD が、洪水の中、ひとつの荷物を配達している様子です。誰に指示されるわけでもなく、こういった行動を自らおこなうというところに、ヤマトの理念が体現されているのではないかと思います。

当時、グローバル カンパニー長を務めていた梅津克彦による、Yamato Global Times 巻頭言から。 Yamato Global Times、2018年3月発行、第7号に掲載。

ヤマトのおじさん、いま走ってきたんだよ

時間ギリギリで配達先に駆け込むと、お客さまは出かける予定だったようで、「ちょっと遅いわよ」と言われました。お詫びをしていると、4歳くらいの女の子がきて、「ヤマトのおじさん、いま走ってきたんだよ、わたし、見たもん」。そして、手に持っていたタンポポを、「はい」と私にくれました。こんな小さな子に、自分の一生懸命さが伝わったことが嬉しかったです。

ヤマト運輸、 SD のメッセージ。社員研修用資料、感動体験 DVD、SD 編、2009年、に収録。

これからも、娘と孫に、いっぱい、島の魚を送るから、と

いまから30年ほど前、私は、生まれ育った、この島を、進学のため、離れて暮らしていました。漁師だった親から送られてくるものは、島の海産物がほとんどで、その当時は、塩漬けにされたものが、一週間以上かかって届けられていました。

それから十数年後、島へ帰ってきて、この、ヤマト運輸に入社しました。ある日のこと、一件の個人集荷におうかがいしました。そのとき、おばあちゃんが、「島の魚を送りたいけど、塩漬けじゃないとだめでしょう」と聞いてきました。私は、始まったばかりのクールたっきゅうびんのことを思い出し、即座に伝えました。それを聞いたおばあちゃんの目が大きくなって、「本当に、じゃあ、これもいれて」と、台所の冷蔵庫から、ありったけの魚と貝をもってきました。とても全部、いれることはできませんでしたが、少し大きめの箱がもうひとつ、できあがりました。

それを車に載せ、次の場所に向かおうとしたとき、おばあちゃんが、「これ、あんた持って帰らんね」と、一匹の魚を私に手渡しました。「もらってもいいの、おばあちゃん」と聞いたところ、「これからも、娘と孫に、いっぱい、島の魚を送るから。あんたもこれを食べて、気張って欲しいからあげるんだよ。また、お願いね」と言われました。

仕事が終わり、家で、さっそく、もらった魚を焼いて食べてみました。身がホクホクとほぐれて、ほどよい塩味の美味しい島の魚の味がしました。

ヤマト運輸鹿児島主管支店 SD のメッセージ。わたしのクール感動体験、第2号、2016年に掲載。

君も料理してくれたのと同じだよ、と言われて

数年前、クールたっきゅうびん、冷凍、をお届けに伺った先は、年配の男性が受取人さまでした。当時の私は、集配を早く終わらせたい、という気持ちだけで、そのお荷物も、数ある中のひとつという思いでした。そのお客さまにとっては、初めてのクールたっきゅうびんのご利用だったようで、「本当に冷凍で届いているの」と、私の目の前でお荷物を開封しました。中身は手作りのお惣菜でした。お客さまは単身でこちらにお住まいで、お惣菜は、遠方にいらっしゃる奥さまからとのことでした。何度も何度も、「ありがとう。ありがとう」と仰ってくださって、私も、とてもうれしい気持ちになり、「私がお惣菜を作ったわけでもないけれど、とてもうれしいです。早く奥さまにお電話して、お喜びになっている気持ちをお伝えください」と申し上げたところ、「ちゃんと届けてくれたんだから、君も料理をしてくれたのと同じだよ」と言われ、うれしい気持ちと同時に、今までのお荷物の扱いに対する考えを恥ずかしく思いました。そのとき、あらためて、お荷物を出されたお客さまの気持ちと、受け取られるお客さまの気持ちの両方の立場を重く受け止め、お届けするよう肝に命じました。

ヤマト運輸、ふなばし主管支店、 SD のメッセージ。ヤマト ニュース、2016年11月発行、第725号に掲載。

私たちの仕事は、真心を運んでいると実感した瞬間でした

母の日に出勤したときのことです。トラックの中は、プレゼントのお花であふれんばかりでした。今まで一度も伺ったことのないお宅への配達があり、花の入った大きな箱を持ち、インターホンを押しました。お母さんらしきかたが出てみえて、「うちへの届け物ですか」と聞かれました。「そうですよ。母の日のお花だと思いますが」。そう言ったとたん、差出人の名前を確認されました。その瞬間、「息子からです」と、泣き出してしまいました。「今日、僕の配達する荷物の中で、一番大きなお花ですよ」とお伝えすると、「息子から初めてもらった母の日のプレゼントなんです」。私たちの仕事は、真心を運んでいると実感した瞬間でした。

ヤマト運輸、 SD のメッセージ。社員研修用資料、感動体験 DVD、SD 編、2009年に収録。

このシステムは、あなたの息子ですよね、と言われて

納入したシステムにトラブルが発生、お客さまの会社に常駐をしながら、運用と平行してシステム テストと、リリース作業を繰り返していました。スケジュールの遅れもあり、毎日、お客さまから怒られるような状況でしたが、1年かかって、リリースすることができ、安定稼働を確認したあとは、お客さまへの訪問もなくなりました。しばらくして、その会社を訪問した際に、社長から、「いろいろと苦労はあったが、あなたが納入してくれたシステムで、大いに売り上げを伸ばすことができました。このシステムは、あなたの息子ですよね」と言われ、あの時、苦労したことが報われたと感じました。

ヤマト ロジスティクス社員のメッセージ。2018年ヤマト ロジスティクス感動体験アンケートに掲載。社員がヤマト システム開発に在籍していた時のエピソード。

たっきゅうびんの車って、サンタクロースが来たみたいな感じがしませんか

私は子どものころから、たっきゅうびんの車が家の前へ、とまると、すごくワクワクしたんです。たっきゅうびんの車って、サンタクロースが来たみたいな感じがしませんか。まさか、私がそのサンタクロースになるとは。だから、今度は私が、いつも真心と笑顔と元気で、お客さまに接するようにがんばりたいと思います。

ヤマト運輸福岡主管支店社員のメッセージ。クロネコだより、1996年1月発行、第158号。新春座談会、20周年迎えた、たっきゅうびん、再び原点に帰って、に掲載。

たっきゅうびんが始まったころは、私も会社も無我夢中でした

かつては120戸ほどの家があった、落合という地域のお宅宛の荷物でした。当然、除雪なんてしていませんから、胸の位置まで雪が来ていて、歩くのもひと苦労。雪をかきわけながら、とにかく家を探しました。しばらくすると、荷物を背負うのも困難なほどに。3時間ほど歩き回りましたが、結局、家がわからずお届けできませんでした。たっきゅうびんが始まったころは、私も会社も無我夢中でした。

東京のデパートから北海道のビバイにお届けするハムを背負い、雪深い、街の地図もない場所へと向かった逸話をもつ、ヤマト運輸 元社員のメッセージ。クロネコだより、2017年、春号に掲載。

社員本人に、当時のリュックを背負って、現役だったころの姿を再現していただいた、2014年撮影。

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